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業界初!技術系コラム
題してBBDの「いまさら聞けない技術講座」

2001.03.20
お詫び・またしてもコラムのアップデートが
遅れました。HPの拡充を目指す為の容量設定に
伴う変更で、やむを得ず遅れた次第です。
今後は頑張ります。どうかお許し下さい!(管理人)
 
3月も半ばにさしかかったこの頃、気候も少しづつ春めいてきて、
そろそろ花粉とかの心配している方々もいらっしゃるのでは?
 
ちょっと今回は都合でいつもとは全く雰囲気の違う
「今更聞けない技術の話」の始まりです。
 
というのも前にも何回か書いたかと思いますが、
自分は音楽を聞き手に提供する仕事を始める以前から、
技術系のしかも通信・コンピュータ・音響に関する仕事をしていて、
いわゆるエンジニアとして足掛け10数年働いておりました。
 
勿論そうなるまでに技術系の教育を受けておりまして、
大学はそういう大学の工学部で電子通信工学科、
音響研究室の出身であります。
 
その時の同級生が3月11日に突然亡くなったのです。
この男は同級生と言うより、まあ当時の親友のような物で、
一年生のオリエンテーションの時に出逢ってから卒業するまで4年間、
何故か気が付くと一緒にいるような、そんな関係でした。
 
オリエンテーションの時、少し緊張しながら周囲を見回していた自分が、
自己紹介をする場で「音楽関係の仕事をしている実家の関係で、
録音等の技術に興味があり、この学部を志望した」という話をすると、
彼は何故か休み時間に近寄ってきて「音楽関係ってなに?」とか
「自分でも音楽やるの?」とか照れくさそうに聞いてきたのを覚えています。
 
全く他人ばかりの教室で、みんな誰かと話すきっかけを
欲しがって居る様な雰囲気の中、彼の言葉は
何となく安心感に満ちた最初の出来事だった気がします。
 
何故か気が合い、ときどき一緒に昼食を取ったり、勿論教室でも顔を
合わせれば色々と話をするようになりました。 やがて、所属するクラブを
決める事になり、自分は高校時代の周囲の人達から情報が回っていて
体育会のラグビー部に所属する事に(というか無理矢理入れられた)なり、
本当は軽音楽(いわゆるバンドとか)をやりたかった自分としては
不本意ながらラグビーを再び始めました。
 
彼は迷わず学内に3つほどある音楽のクラブに所属して、
そう言う環境に最初から身を置いたのですが、自分もひょんな事
から2年生の時にラグビーを辞めて、音楽のクラブに所属しようと
考えだした頃、彼は熱心に自分を彼が所属するクラブに誘ってくれた
事を今でも思い出します。
 
その当時自分は、少し物の見方が曲がっていたようで、彼の所属している
ような大きなクラブでは少し自由が効かないと思い、
あえて小さな同好会のようなサークルを選んだのです。
 
それでも色々と仲良くしていたもので、ときどきお互いのバンド
のライブを見に行ったり、練習をしている所を訪れたりもしました。
 
接点は色々と あり、自分は当時ベースを弾いていて、
彼はキーボードでしたが、お互いに何故かシンセサイザーに興味があり、
自分は実家のお下がりのシンセサイザーを持っていて、
しかもアナログだったために彼はかなり入れ込み、何回も家まできたり、
渋谷とかお茶の水で楽器屋を巡り歩いたりし始めたのもこの頃です。
 
彼は後に、国内随一のシンセサイザーメーカーに就職する事
になりますが原点はこの頃からはっきりと判るほど、際だっていました。
 
何故かシンセサイザーの回路や構造に非常に詳しく、
何かトラブルがあると必ず原理的な部分から、解決してしまうのです。
 
後年、廃棄処分寸前のシンセを2台入手して、一台の完動品を作り上げたとか、
修理不可能な物は、自然と彼に回るようになったとか...
そんな話もあったそうです。 しかし、これだけ回路や構造の理論に
詳しい人間だからさぞ成績も良かっただろうと想像されるかも知れませんが、
彼に取って成績のライバルは、卒業できた事自体が奇跡と言われ、
落ちこぼれと言われ続けて4年間を全うした、何を隠そう自分だった
というのも信じられない話です。
 
成績は(なんとその大学は総合順位を壁に張り出すという恐ろしい学校
だった)彼と一番違いで、しかも120名程の学科で後ろから数えて
1桁台で...(彼の名誉のために書きますが、彼の方が上でした)
 
4年になると研究室に属して、卒論を書くというのが工学部の常で、
自分と彼は同じ研究室へ進み、同じテーマの卒論に着手。
つまりパートナーに なった訳です。
 
免許を取り大学2年の終わりに、中古車を手にいれた自分は、
何故か毎日のように彼を載せてあちこちへ、出かけたものです。
 
今考えると毎日何を していたか詳しくは思い出せませんが、
音楽をする事と試験の前後だけ勉強する事以外にそれほど
やらなきゃいけない事が有ったとは思えませんが夜な夜な、
学校の付近で色々な友人達と時間を潰して遊び歩いていたものです。
 
自分が車を手にいれた頃から、彼の衝動的な買い物は
スケールアップし始めました。
 
毎日のように中古楽器店を回り、時々大きな買い物をするよう
になりました。 SYSTEM−100という、モジュールタイプのアナログシンセ
を見つけた時は、2人で揃って1台づつ購入し、自分はペダルを付けて
ベースを演奏するときに使い、彼も良く使っていました。
 
やはりああいうシンセサイザーの基礎をパネルに凝縮したみたいな楽器は、
演奏や操作に慣れると いう様なレベルの話ではなく、「アナログの回路の
全てが集結している完全な教材」(知人の某エンジニアO氏のお言葉)
ともいえるものです。だから自分のようにアナログの回路に興味など
殆ど無いような人間が、気が付けばアナログ回路の講習をする方側
になっているという恐ろしい事も現実になるのです。
 
その後も、中古楽器屋さんでたまたまMC−4(アナログシーケンサー)
という当時ですら年代ものの、いわゆる音楽専用のコンピューターを彼が
発見したとき、立ち止まって息すら止まってしまったのでは?と思われるほど、
微動だにしない彼から発せられた最初の言葉は「かっ、金かしてく れ!」でした。
 
自分もそれほど手持ちがなく、当然大学生なのでカードも持って
いなかったので、「銀行に行かないと...」という僕に懇願するような
眼差しで無言のままの彼。
 
不思議がる自分が彼を促したときは、あたかもその場所を離れた瞬間に、
自分が見つけた宝物が二度と手に入らなくなってしまうのではないか
という表情で、思わず笑ってしまいました。 「大丈夫だよ10分くらいじゃ、
無くならないよ」と連れだって店を出る 間際まで「本当に大丈夫かなあ?」
と言っていたのを今でも良く覚えています。
 
彼は音楽で言えば「テクノ」の熱狂的なファンで、クラフトワークという
ドイツのグループをこよなく愛していました。
 
自分がたまたま高校生の時にその来日公演を見にいっていて、
その時の話をするといつも目を輝かせていました。
 
結局、それから10年近く経って再度来日公演を果たし、頼まれてチケット
を取って、一緒に見に行くはずが自分は仕事で抜けられず結局
その時は彼に会えませんでした。
 
さらにはご存知の方も多いかとは思いますがYMOという日本の
テクノミ ュージックの草分け的バンドの大ファンでした。
 
中でも特に日本の音楽の分野にコンピューターを根付かせ、
またマニュピレターという新しい音楽家の存在を確立した、
松武秀樹さんという方に憧れていて、たまたま自分の親族が
松武さんと知り合いだと言う事を知った彼は、恐いくらいの羨望の眼差し
で僕の事をにらんでいたのを思い出します。
 
後になって、自分も松武さんとお会いして、図らずも彼の事を話題にした
事があり、その内に是非お引き合わせしたいという話をしていましたが、
結局実現できませんでした。
 
彼が亡くなってしまったという話を松武さんに聞いて頂いたところ、
非常に残念がっておられた事をここに加えておきます。
 
追悼の会合などで、自分以下旧知の仲間達と、最近まで仕事や趣味などで
親交のあった方々と接する機会があり、色々と話を聞いてきました。
 
亡くなる直前の彼の行動やその姿が、なんとなく想像できる話が色々
聞けて少しホッとしたり、やはり切なくなったりしました。
 
自分が知っている彼の姿と寸分違わず、人懐っこく、優しく、
慎重なようでチョット抜けていて、ふと傍らに視線を投げれば「やあ」
といいながら近づいてくる、そんな彼の日常を、目の当たりにしたような
そんな夜でした。
 
今でも彼が居なくなったとは信じられませんが、
自分だけではなくみんながそう思っていた事が確認できたのは、
不思議な巡り合わせでしょうか。
 
噂話をしているとうしろからこっそり顔を出して
「なに話てんの?」と、
今でもやってくるような気がして...
 
心からご冥福をお祈りいたします。BBD
追悼BBS  彼の所属していたバンド
 
2001.03.20 (天国で、テクノ流行らせ、待っててね...)
 
97%!ディレクター兼ドラマー兼コンポーザー兼雑用!!BBD
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