業界初!技術系コラム
題してBBDの「いまさら聞けない技術講座」

2000.12.25
またやってまいりました、技術講座です。特別編が
あったので10回目です!今回は予定の内容を変更して
少々いつもと違う趣向でお送りします。
 
全回のコラムでギャグ関連はひとまず完結。
あとは21世紀にまたやりましょう。
今回は予定していた「環境」をまたしても一回伸ばして
普通のコラムになってしまうことをお許し下さい。
 
この12月は本当の意味でのレーベル出発一年目
の年末で、忙しい事この上ない日々を送りました。
12月に入り小森音楽事務所の方では、こどもステージの
上演と音楽制作・CD販売、Na2-Recordでは12月に入ってからも
数本ライブを企画していて、まあ行き来の激しい年の瀬
ですが。今日は今世紀最後のクリスマスをひっそりと終えて
少し去来する諸々の感情を、整理し始めて半分程度戸棚に
仕舞い込んだ...そんな感じの一日でした。
 
この前の一週間、そして週末と図らずも頭は常に一つの事が
引っかかったまま、多忙なスケジュールをこなしておりました。
 
笑われる事も覚悟の上ですが、自宅で家族同然にしていた
猫が22日・午後に死んでしまったのです。
 
まあ、不思議な物で例えば祖父や祖母などが最期の床に就いた時も、
友人が先立ってしまった時も、感情の高ぶりが表面に出るよりは
いろいろな思考が巡ってしまい、涙はあまりでなかった覚えが有ります。
これは若い時から、自分もいつか順番で自分が死んでしまうとか、
なんとなく解釈が付いている気がして、前述のような不幸が有るたびに
「自分に残された時間」をどう使って行くのか、そう考えてそれとなく
気を紛らわせているつもりになっていました。
 
もちろん、愛する人を無くしたり...そういった気持ちにはなった事が
ありませんが、ある種の絶望を乗り越えるだけの余力を理性の中に
残しておきたいような、そんな気持ちが有ります。
 
ところがペットが死んでしまう時には、全く無防備にただ涙が出て
「悲しい」という以外に感情が湧き出なかったのは、自分でも驚きました。
 
うちに来ていた猫の一族は、21世紀を迎える事無く絶滅してしまいました。
 
嫌な事が有った時も、楽しかった時も、かれこれ20年近くその猫達と
暮らしてきた自分達にとっては、あまりにあっけない最期ではありましたが
その分、感情は揺れて涙となって流れたのでしょうか...
 
最初の猫がウチにやってきたのは既に20年も前の事で、
最初のメス猫は”ポン”と呼ばれていました。
 
当時ビートたけしが”わらってポン”なる怪しい番組をやっていた頃で、
この番組が”ひょうきん族”の原形だったそうで、コントの合間に”ぽん!”と
連呼していたのがこの猫の命名原因でした。自分が名付け親です。
この猫は「岸田今日子」さん宅の”パフ”さんが親で、ヒマラヤンとペルシャ
の間の子で「血統書付きの雑種!?」といわれて、上記の命名理由は当然
表面上隠されて、フランス語の林檎:ポムから来ている事になっていました。
この猫は美形で、かつ頭が良く、かなり勝手で、しかし可愛がられて
すくすく育ちました。幼児期には良く母親の乳房をもとめ、当たり構わず
噛み付くし、やんちゃで四六時中駆けずり回っていたこともあり、ウチ
の家族は全員傷だらけの手をしていました。
 
やがて、オス猫ももらってくる算段が整いお婿さんをもらったのが2年後
です。来た猫は従順で、少々鈍い所がまた可愛い、そして冒険好きの
”タケ”でした。勿論命名は”たけちゃんマン”からで、前回の命名から
考えれば至極単純なのですが、そんな名前は嫌だと猛反発に会った割
にはすぐに馴染んだ名前でした。この猫は少し変っていて、寝る時に
人間と同じく仰向けに、腹部を天井に向けて寝る癖が有ったり、名前を呼ぶ
と必ず一声返答をするとか、元気で芸達者なやつでした。
冒険好きで幾度と無く脱走して、2〜3日で付近の野良猫にこっぴどく
イジめられて、ボロボロになって帰ってきては、また忘れた頃に脱走する
そんな元気な猫でした。
 
この2匹で実に40匹近くのこどもを産んで、ありとあらゆる知人・友人に
里親になって頂きました。最近聞いた所ではまだ生きている猫もかなりいて
種は絶滅した訳ではなさそうで、その点は良かったかもしれません。
里子に出した猫の一匹が「育っちゃったので要らなくなった」と凄い理由で
返されてきたのは、今から16年ほど前です。それが”チャム”と呼ばれた
最期の猫で、親達とは違い甘ったれで、かなり鈍く、少し太目の奴でした。
オス猫で、帰ってきた当時は親に押しのけられたり、少しいじめられたり
まあ俺にもいじめられたり、「出戻り猫」と呼ばれてなんともおかしな存在感
で、家の中は猫だらけ...という状況だったのを思い出します。
毛足の長い猫達で、部屋の掃除はもとより、スーツやコートなどは
猫の毛だらけ、食卓でも猫の毛を取り除きながら、そしておかずを
奪いに来るネコ達の恐怖から身を守る、緊張感の高いお茶の間
生活を送っていた思い出が有ります。
 
奇しくも音楽の仕事をはじめた頃から、自分は自宅に事務所を構えた
事で最期の猫チャムと一緒に過ごす時間が増えました。そして、気が付
けば事務所を訪ねるお客さんにたいていは猫を見せて自慢!?していた
ので、周囲の人達はかなり良く知っている筈です。
 
このネコ達はまったく自分をネコと思っていないらしく、人間と一緒に
食事の時間を迎え、食卓に近い所で過ごし、ソファーで誰かが寝ると
必ず上や横で寝ていました。家族の中でのポジションは下から2番目
と思い込むのだと誰かが言っていましたが確かで、弟が何を言っても
相手にしなかったり、怒られてもコタえない雰囲気で、弟が嘆いていたのを
憶えています。「俺は猫以下かよ!」
 
晩年、最期の猫チャムは老いと病気の不安さで、妙に誰かの膝の上で
休息する事を好むようになりました。それに、エサはエサとして与えても
食べず、自分達が食事を食卓で取る時に彼専用の椅子に上り、そこで
分け前をもらうようになっていました。食後は再び誰かがいる部屋に行き
誰かを見つけると膝の上によじ登り、何時間でも居座るそんな日々でした。
 
最初に病気にかかったのは”タケ”でした。尿道結石で、排泄が出来なくなり
苦しんだ末になくなりました。おそらく7〜8年程度の生涯でした。人間にすれば
40台という感じでしょうか。病の床で虫の息だった時も「タケ!」と呼べば
かすかな声で返事をしていたのが忘れられません。
 
”ポン”の最期はかなり大変でした。そう明な猫だっただけに血行障害で
自分の体の自由が利かなくなると、当たり構わず噛み付いたり、暴れて
手を焼きました。しかし、動けなくなってからは嫌いだった入浴が好きに
なり幾度と無くお風呂に連れていったり、身動き取れなくなってからは
籠に入れて表参道を散歩したりもしました。最期朦朧としている時に
手を差し伸べると噛み付くのではなく、優しく僕の手のひらの柔らかい
部分を咥えて、まるで母乳を吸う様に口を動かしていました。14年ほどの
生涯ですからおおよそ人間で言えば60歳程度だったのでしょうか。あれ
だけたくさんの子供を残したのですから、長生きかもしれません。
それから約6年間チャムは我が家の末っ子として、ひとりだけ残されて
生活を共にしてきました。自分達がいろいろな思いで生活している事は、
あまり彼には関係なかったかもしれませんが、いつも家に戻れば視界の中
に彼がいたのですから、家族の一人だったのは間違いないでしょう。
 
12月の10日前後、台所に立った自分を見守る様にして側の椅子に
座った彼は、突然バランスを崩して床に落ちます。そのまま身動きが出来
なくなり、以降食べ物を口にしなくなり、瞬く間にやせ細って行きました。
それからは毎晩、父と私と妹で毎晩側に付いて眠らせて、全く歩けなくなった
21日の夜に、みんなで囲んでなでながら一晩過ごしました。
 
翌、22日は妹が仕事を休んだ以外、全員外出せざるを得ず朝のうちに
自分も顔を見てから外出しました。午後移動の車の中に電話が掛かり
彼が息を引き取った事が判りました。涙が止まらないまま、ライブの現場に
到着して予定通り仕事を続けました。この時期に忙しかった事がせめて
もの精神的な救いであった気がします。
 
数日経った今日まで殆どヒマらしいヒマが無く、やっと一息いれて居間
のソファーに横たわり、ふと名前を呼んでから悲しくなりました。未だに
癖で、食卓やソファーや冷蔵庫に行くと、必ず探してしまいます。
 
食卓から見える庭の、一番部屋に近い所に彼は埋まっています。
大きな紫陽花の根元で、今まで一族はみんなそこに埋められています。
そして、その翌年は決って大きな美しい紫陽花が咲きます。
21世紀まで生き残れなかった一族は、21世紀に紫陽花を咲かせる事で
その幕を閉じるのでしょう。
 
全然技術の話では有りませんでしたね。
次回からは、技術の話を再開します。約束ね!
今回はしんみりしましたが...21世紀にまた!
 
2000.12.25 (さようなら、でも忘れない、この時代)
 
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