リレーコラム

 

2000.01.09

 
あけおめ〜
って書くのが流行だそうで、何となくやっちゃいました。
 
如何お過ごしでしょうか?BBDです。
 
この年末年始、色々事情で他愛もない仕事にかかりっきりで、
全く日々、朝も昼もなく仕事をし続け、正月に入ってからはコンピューター
のお世話しっぱなしの実に不健康な毎日を送っておりました。
私のコラムは実に「何か笑って頂かなければならない」宿命のような物を
感じて、過去数回笑いものネタ系の話で押し通して参りました。
かといって、私がとことんふざけた人間かというと...
周りの方の判断にお任せいたします。
 
はい... ここの所、我が愚弟が急に目覚めたように日夜PCに向かい
作業を続け、 (何やらイベントの仕込みを任されたらしく、どこで覚えた
のやらCD作ったり 資料や案内のパブリッシングにご執着で...)これで
仕事場はとっちらかってる は、PCの中身もとっちらかってるは、偉い騒ぎです。
 
既に商売用のデータを消されたり、散々な目にあっておりますが、こういう時こそ
「他人の振り見て、我が振り直せ」(他人じゃないかな?)とは良く言ったモノで
何を手間取っているか、何で困っているか、何でとっちらかってるのか、
手に取るように判るもんで、身内に仕事手伝わせるのも面白いかなと思っております。
 
周囲には「喋る2000年問題」とか「人間ウイルス」等とウケ狙いで話して
おりますが、本人は少々は気にしている様子なので、この話はこの辺で。
 
年末から年始に掛けて、いわゆる寝正月みたいな物をやりまして、まあ毎年の
ようにそんなこんなで何もなく過ごしておりますが、その上PCは殆ど
占拠 されておりましたので映画をしこたま見ました。
元々親兄弟も映画なる物にかなり執着があり、弟などは演劇人でこの事務所の
作曲家先生も元は映画狂で、高校時代は演劇などもかじった人。黒澤映画
に憧れたりした経歴があり、なんでも録音で指揮などさせてもらった事があるとか。
 
まあそんな話は置いておいて、物心付く前に渋谷に住みだし、以来ほぼずっと
この長きに渡り渋谷周辺をネジロにしてまいりました。小さい頃良く祖母に
連れられて渋谷に行き来していまして、いわゆるオバアチャンっ子だった私は、
祖母がその当時の人には珍しく西欧趣味だったこともあり、良く映画を
見に連れて行ってもらったものです。
 
明治通りを原宿から渋谷の方向に進み、やがて駅の方にオレンジ色の地下鉄
(銀座線ですね)が行き来するガードが見える様になる頃、大きな交差点
にさしかかり、左手には宮益坂というあたりの右手に、映画館が並んでいました。
現在はその一角に大きなビルが建ち、やはり映画館も高層階には入っている
ものの、カメラの量販店やハンバーガーショップやゲームセンターなどが
入り込んでいます。
 
この一角は今考えると子どもの頃の自分にとっては、映画の聖地みたいに
思えていたもので、祖母が「映画見ようか?」と聞くと反射的にその場所
の事を思い出していました。角の駅に近い方から東映、そのまま並んで大映。
一軒おいて名画座があり、どの劇場にも良く行った覚えがあります。
記憶が曖昧なのですがこの角に近い方は、松竹だったり東映だったりした覚え
があり、また大映は当然倒産しているので、途中何になったか覚えて居ません。
 
やはり、小学校に入ったかそのくらいの年齢で一番楽しみにしていたの
東映まんが祭りやら、大映だったらガメラやら妖怪モノだったのは間違い無く、
ものすごい怪獣好きだったので、ガメラ・ゴジラの類は総て見ていたと思います。
 
その大映の妖怪モノのプラモデルを劇場の入り口で売っていて、 どうしても欲しくて
ダダをこねた覚えがあります。その翌週に買い損ねた事が悔しくて一人で映画館
に行って「プラモデル欲しいんだけど」と入り口でモギリのお兄さんに話したら
「今は売ってないんだよ」と追い返された覚えがあります。
 
今考えるとその時は任侠モノか少し色っぽいモノに看板が替わっていて、
その人は小学生に付きまとわれて迷惑だったのかも知れません。その手前
(住まいが原宿寄りだったのであえてこう言いますが)にあった名画座は確か
全線座といって、2番館ですね、今言うところの。少し古い映画を一本ないしは
二本で200円か300円で見られた筈です。
勿論私は子供 だったので入場料100円だったと思いますが。
 
今はその場所にシティホテルが建っていて、知らない人にはどうという事の無い
場所ですが、 祖母が西欧嗜好の強い人だったため、もっぱら「東映・大映は父さんと、
全線座はオバアチャン」という不文律みたいなのがあって、とにかく良く連れて
行ってもらった覚えがあります。もとより怪獣少年だった私に、「風と共に去りぬ」
やら「ローマの休日」 なんかを無理強いして見せる程勇気はなかった様で
(すっごいダダっ子だっ たみたいで、その節は色々ご迷惑をお掛けしました!)、
SFモノや 当時少なかったアクションものが多かったような気がします。
 
記憶に残っているのは「宇宙大戦争」だの「ハエ男」だの「フランケン シュタイン」
だったり、まあ特撮も少しチープなお化けっぽい映画が 多かったかな。他にも
「十戎」とかヒッチコックものも見た覚えがあります。 中でも一番良く覚えているのは
「猿の惑星」シリーズで、たぶん全部2回づつくらいは見ているかな。
 
何しろ祖母が出てくる「ジーラ」っていう特殊メイクの猿にそっくりだったので、
その話で笑ったのもあるけど、全部見ると話が循環するってのが本当に
当時ビックリして、今だにTVなんかでやっていると見てしまったりします。
 
祖母は私が大学に入り他界するまで、色々映画を一緒に見に行ったりしました。
今考えると自分の映画好きは、絶対的にこの辺の環境の要因が大きい様ですね。
祖母ってのが生まれも育ちも下町で、典型的なヤジウマ根性丸出しの人。
その上、口が悪くて有名な人で、「あゝ野麦峠」の 特別鑑賞券を友人から
貰い、連れて行くと感動のあまり泣きだした前の席の男性を指さし、大声で
「あの人泣いてるよ」と笑いだして私は慌ててしまった覚えがあるし、
「八甲田山」では「雪目になっちゃいそう」と のたまって、大あくびをして周囲の
顰蹙を買ったり、まあ当時 「意地悪ばあさん」と呼ばれていたのも判ります。
 
自分も多分に口の悪さは譲り受けたみたいですね。 こんな祖母もある日私を前に
急に「私はあなたより先に死ぬんだから、 わがまま言わないの」と諭され、
小学校に上がる前だった私は、しかられた事より、この人は死んじゃうんだという
漠然とした恐怖に泣いた覚えがあります。 実際に亡くなるのはこの十数年後
だったのですが、祖母にこの時「今、泣いたんだから本当の葬式の時
泣いちゃ駄目だぞ」と言われ、確かに実際の葬式の時も 病院でも不思議と
涙が出てこなかったのを覚えています。
 
この頃、映画を見る他にも楽しみの一つとして、夕食の支度の為に渋谷などに
連れて行ってもらえる事でした。誰も帰ってこない日などはときどき映画に
連れて行ってくれたモノで、いわゆるおもり役の息抜きみたいなもの
だったので しょう。用意が面倒だったのか帰りしなに食事をしたり、いわゆる
買い物がてら 渋谷をふらつく感じで歩いたり、と言ってもせいぜい
東横デパート(現在の東急 東横店)のお惣菜やさんを覗く程度で、他愛もない
だったのでしょうが、断片的に渋谷の当時の風景を思い出します。
 
やはりおもちゃ屋の場所とかは鮮明に覚えていますが、やはり件の映画館の駅側
の角に確か中華料理屋と漢方薬屋が並んでいて、何度かそこで映画を見てから
食事をしたりもした覚えがあります。その漢方薬屋は通称「まむし屋」と呼ばれて
いて、ショー ウインドウ越しに生きた蛇やトカゲなどが動めいていて、自分はさながら
怪獣かはたまた動物園にでも来たかのように、飽きもせず長い時間眺めていた
覚えがあります。祖母は意地悪で、隣の中華料理屋に入ったときに、その蛇や
トカゲを料理して出しているから、ちょっと変な味でしょなどと、いい加減な事を
言ってくれたおかげで、それ以降二度とその店で食事をした事はありませんでした。
現在はその場所にはどちらも残っていませんが。
 
何かの話で「小さい頃にみた映画は意外に克明に覚えているモノだ」というのがあり、
私は「そんなのウソだ」と思っていました。考えれば小学校に上がる前後からこれだけ
数を見ているのだから、話が混じっちゃって判らなく なっているんだなと、今更ながら
感心しています。今でも映画はかなり見ている方でしょう。この1〜2年前はロードショー
でも一ヶ月に2〜3本は見ていましたし、衛星放送等で常時映画を見られるようにもして
います。だから今だにどの映画がどうだったかあまり記憶していない事が多くて、
時々周囲にいい加減な事言っているみたいです。
音楽の制作とは全く関係がないようでいて、実は勉強になる事多いです。
 
まあ、覚えていなけりゃしょうがありませんが。
 
今回はあんまり笑えなかったでしょう。 では、またの機会に...
 
by 97%! コンポーザー 兼 ドラマー 兼 笑って頂ければ... 「BBD」
 
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